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忠武公李舜臣・西迆柳成龍の後裔が合同追悼祭を準備

忠武公李舜臣・西迆柳成龍の後裔が合同追悼祭を準備

Posted March. 13, 2007 07:13,   

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「ああ!壬辰年の戦禍は残酷だった。にもかかわらず我が国の今日あるのは、天が助けてくれたからだ…。『詩経』に『過去の過ちを戒め、災いがないよう注意する』とある。これが、私が懲鋆録を記す所以だ」(柳成龍『懲鋆録』序文から)

文禄・慶長の役の当時、領議政だった西迆柳成龍(ユ・ソンリョン、1542〜1607)は、1592年に戦争が起こると、軍事を総指揮して忠武公李舜臣(イ・スンシン)を登用した。戦争が終わった後、彼は文禄・慶長の役の状況を記録した『懲鋆録』(国宝第132号)を故郷である慶尚北道(キョンサンナムド)の安東河回(アンドン・ハフェ)村で記した。

今年は西迆逝去400周年の年だ。西迆の子孫、豊山柳氏と李舜臣将軍の子孫、徳水李氏の両家が、両忠臣の400年の縁を振り返る歴史的な追悼祭を執り行う。

5月初めに始まる追悼祭の前に、西迆の14代宗孫(直系の子孫)である柳ヨンハ(81)氏と忠武公の13代の直系孫である李ジョンナム(71)元監査院長が9日、慶尚北道安東で初めて顔を合わせた。彼らは、西迆の位牌が安置された屏山書院を見学した後、西迆の宗宅である豊川面(プンチョンミョン)河回村にある忠孝堂(宝物第414号)で、400年にわたる両家の世交(先祖代々続いてきた交わり)を振り返った。

「西迆先生が登用しなければ、忠武公がどうして国を救えたでしょう」

「忠武公が文禄・慶長の役を勝利に導くことができなければ、西迆先生も今日まで尊敬されることはなかったでしょう」

両家の子孫の出会いは、西迆逝去400年を迎え、追悼行事の準備を話し合うための席だった。

推進委員長をだれが務めるかで両家が互いに譲歩し、最終的に李元監査院長に決まった。西迆を追悼する行事ではあるが、忠武公の子孫が引き受けた方がより意味があるという意見に一致した。李元監査院長は、「屏山書院の西迆先生の位牌の前で、忠武公が危機に置かれた国を助けるために立ち上がった当時の状況を考えると、胸が熱くなった。懲鋆録に表われた西迆先生の愛国心が、長く国民の心の中に生き続けてほしい」と話した。

両家と安東市は、5月10〜20日、忠孝堂や国立中央博物館、釜山(プサン)および晋州(チンジュ)博物館、陸軍士官学校などに遺品を展示するほか、西迆先生伝記の発刊や演劇「懲鋆録再読」など、多彩な記念行事を行う。忠孝堂に保管されていた『懲鋆録』は最近、展示のためにソウル龍山(ヨンサン)の国立中央博物館に移された。

この追悼祭は和解の場でもある。

文禄・慶長の役の時、朝鮮侵攻の急先鋒だった小西行長と加藤清正の子孫、朝鮮を支援した明の将軍・李如松の子孫が追悼行事に参加する予定だ。李如松将軍の子孫は、中国遼寧省の鉄嶺市に住んでいることが確認された。豊臣秀吉の直系子孫はいないと伝えられている。

開幕式の日には「400年ぶりの和解」をテーマに、山形県寒河江市の公演団が日本の伝統舞踊を、中国曲阜市の公演団が明の伝統舞踊を披露する予定だ。

柳ヨンハ氏は、「日本の子孫は、文禄・慶長の役に対する謝罪を前提に招待する予定だ」とし、「日本の国内事情のため、何の罪もない朝鮮を侵略したことを謝罪し、三国の新しい未来のために和解の心を分かち合いたい」と話した。



boriam@donga.com