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誕生日も知らず、異国を転々 元従軍慰安婦ノ・スボクさんの傷は今も鮮明

誕生日も知らず、異国を転々 元従軍慰安婦ノ・スボクさんの傷は今も鮮明

Posted August. 11, 2011 07:45,   

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「メイディ・マク・マク」(『非常に悪い』という意味のタイ語)

約60年ぶりに再び日本の前に立つ老婆の口からはこの言葉しか出なかった。体の傷は時間が経つにつれ癒されたものの、思い返すことすら恐ろしい心の傷は今まで鮮明に残っている。

15日の光復節(クァンボッチョル)を5日後に控えた10日、ソウル鍾路区中学洞(チョンログ・チュンハクドン)の在韓日本大使館の前では、「日本軍慰安婦問題解決のための定期水曜集会」が開かれた。同日の集会にはいい時分に日本軍慰安婦として連れて行かれ一生を異国で暮らしたノ・スボクさん(90)が参加した。

ノさんは、当時21歳の1942年、釜山(プサン)の影島(ヨンド)橋近くの井戸で洗濯をしていたところ、日本軍に連れて行かれた。家族に別れも告げられないまま、シンガポールやタイなどへ連れ回されたノさんは、以後3年間を慰安婦として生活させられた。1945年、日本の敗戦後、タイの国連捕虜収容所に収容されていたノさんは、「このままでは、また連れて行かれるかも知れない」という漠然とした恐怖感から収容所を脱出した。マレーシアのイポを経て、タイ最南端のハットヤイまで逃れたノさんは、ここで故郷を思いながら暮らしてきた。

お金もなく言葉も通じない異国の地で、ノさんは生きるために、家政婦から水洗い、食堂の手伝いまできつい仕事をしてきた。そのうち、中国人のチェンチャオさんと出会い、所帯を持った。しかし、長い慰安婦生活の後遺症はノさんに不妊という試練をもたらした。子どものないノさんは、夫がこの世を去ってから、夫の甥・姪らと過ごしている。生活苦で故国へ帰る術もなかったノさんは、既に韓国の言葉も全て忘れてしまった。ノさんが覚えている韓国語は、「アンニョンハセヨ(こんにちはの意)」と故郷の住所の「慶尚北道安東郡豊川面(キョンサンブクド・アンドングン・プンチョンミョン)」だけだ。

03年からノさんの生活支援をしてきたイ・ハンジュプケット韓人会運営理事(56)は、「ノさんが自分の誕生日は忘れても、8月15日は国を取り戻した日だときちんと覚えており、そのため毎年光復節をノさんの誕生日にして祝ってきた」と語った。

幸い、ノさんは今年の誕生日で故郷で過ごせるようになった。光復66周年を迎え、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が韓国へ招いたことによる。挺対協は1988年初めてノさんの存在を確認して以来、最近まで連絡を取ってきた。ノさんの故郷訪問は、1984年と1991年に続き今回が3度目だ。

ノさんは昨年、片方の肺を取り除く大手術を受け、体を動かすのが大変だったが、10日開かれた「水曜集会」で車椅子に座ったまま、1時間以上集会に参加した。

ノさんの一生の願いは、韓国籍を回復すること。これまでノさんは夫の助けによって中国籍で暮らし、今度の訪韓時も中国旅券を使用した。通訳のため、ノさんと一緒に訪韓したイ・ハンジュさんは、「ノさんがこれから大韓民国政府の保護の下で、幸せに暮らせるよう、今回の訪韓期間中に国籍を取得できるよう、最大限努力する」と語った。ノさんは11日、国会を訪問し国会女性家族委員長と面談、続く14、15日の2日間、故郷の安東(アンドン)と釜山を訪問後、17日タイへ帰る。



jhk85@donga.com