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調査官「強制的に慰安所に連れていかれたのか」

調査官「強制的に慰安所に連れていかれたのか」

Posted April. 23, 2007 09:29,   

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安倍首相が、軍慰安婦を連行する過程での軍・官憲の強制的介入を認めない理由は、「いくら探しても、これを立証する公的な文書がない」ということだ。

安部首相は26日に予定された訪米を意識したかのように、21日の米ニューズウィークとのインタビューでも、「軍慰安婦問題と関連し、日本の首相として責任を感じる」と述べて謝罪の意を示して、河野談話を継承することを明らかにしたが、「強制動員の証拠はない」という言葉は遂に取り消さなかった。

しかし、東京裁判の証拠資料として提出された諸事例は、安部首相の主張に反する内容を含んでいる。

ある事例では、インドネシア・モア島の指揮官だったオハラ・セイダイ日本陸軍中尉が連合国オランダ軍の調査を受け、「現地女性を強制的に慰安婦にした」と供述する内容(1946年1月)には、次のような問答が続く。

問:ある証人は、あなたが女性たちを暴行し、彼女らを兵営に連れていき、日本人たちに提供したと言った。それは本当か。

答:私は部隊員のために、娼家を一軒建て、自分も利用した。

問:女性たちはその娼家に行くことを承諾したのか。

答:承諾した者も、しなかった者もいた。

問:そこで何人が生活したのか。

答:6人だ。

問:そのうち何人が強制的にそこに入ったのか。

答:5人だ。

問:なぜ女性たちは、娼家に入ることを強要されたのか。

答:彼女たちは、憲兵隊を攻撃した者の娘だった。

問:では、女性たちは父親がしたことに対する罰として娼家に強制的に入れられたということか。

答:そうだ。

この問答のすぐ前の部分には、憲兵隊を攻撃しようとした現地住民を虐殺した内容がある。

モア島の西方にあるポルトガル領東ティモールの事例は、進駐した日本軍が、地域の首長に慰安婦募集に対する協力を強要したことを示している。その様子を目撃したポルトガル医療事務員は、次のように証言した(1946年6月)。

「私は、日本人が地域の首長に原住民の少女を娼家に送るよう強要した多くの場所が知っている。彼らは、首長が少女を送らなければ、直ちに日本人が首長の家に押し入り、親戚の女性たちを慰安所に送ると言って脅迫した」

インドネシアのボルネオ島では、海軍が慰安所を直接管理し、「特警隊」(憲兵隊に該当)が、慰安婦を集める責任を負っていた(1946年7月)。当地の事例は、1992年、日本のあるフリー・ライターが、オランダ現地で政府資料を入手して月刊誌『世界』に発表したほか、オランダ政府が1994年1月に整理した報告書にも含まれている。

インドネシア・ジャバ島のマゲランの事例(1946年5月)では、一般の収容所に抑留されていた当時25歳のオランダ人女性が、他の若い女性たちとともに日本軍に引き渡され、3週間、娼楼に閉じこめられて強制的に働かされ、ある日本軍将校によって一般収容所に返されるまでの体験を語っている。

「(1944年1月28日、日本軍によって一般収容所から他の収容所に移された私たちは)2月3日、再び日本人医師によって健康検診を受けた。そこで私たちは、日本人のための娼楼に行かされたという話を聞いた。その晩、娼楼が開かれるといううわさだった。部屋に戻ってきたブレカー夫人と私はすべてのドアと窓を閉めた。午後9時頃、外でドアをたたく音が聞こえた。ドアを閉めてはいけないという命令だった。…ある兵士を連れて入ってきた憲兵は、私に『もし拒否すれば、お前たちの夫がその責任を負うことになる』と脅かした。娼楼は、平日には日本の将校、日曜日の午後には下士官のために開かれた。日曜日の午前は兵卒のために、時々一般の日本人も相手にした。常に拒否したが無駄だった…」

このほかに、フランス検察隊が提出したベトナム・ランソンのケース、中国・桂林の工場労働者募集で騙されたケースなども記されている。

関東学院大学の林博史教授は、東京裁判の記録でなくても日本軍が中国での慰安婦募集に関与したことを裏づける資料が、日本政府が1992年に公表した公文書に含まれていると指摘した。

1938年3月当時、陸軍省副官が、中国大陸に駐留している軍隊の参謀長宛てに送った「軍慰安所従業婦等募集に関する件」(1938年3月)という通告には、「△(軍慰安婦)募集は派遣軍が統制し、担当者の人選を主導する。△募集する地域の憲兵、警察当局との連帯を密にする」という記録が残っている。



sya@donga.com