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趙成鏜「夢はあきらめたが、永遠に野球人」

趙成鏜「夢はあきらめたが、永遠に野球人」

Posted July. 06, 2003 21:52,   

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「インタビューをお願いしたいんですが」。

「いいですよ。これからは新聞に名前が載ることもなさそうだから…」。

マスコミとの接触を嫌う趙成鏜(チョ・ソンミン、30)とのインタビューの約束は意外に簡単に取れた。プロ野球の新人2次指名翌日の1日、ソウル道谷洞(トゴクドン)にある個人事務所で会った趙成鏜は「私の野球人生を整理する意味で一度インタビューを受けるのもいいかもしれませんね」と話しながら、記者を喜んで迎えてくれた。

インタビューは2時間ほどつづけられた。趙成鏜の野球人生をまとめるのには短い時間だったが、趙成鏜は物静かに過去のことを振り返った。

◆ビッグ3+朴贊浩

信一(シンイル)高校時代、趙成鏜はいわゆる「ビッグ3」の1人だった。3年生の時の91年、鳳凰旗と黄金獅子旗2冠王に導いた趙成鏜を含め、徽文(フィムン)高校の(イム・ソンドン、現代)と京畿(キョンギ)高校のソン・ギョンス(斗山)が投手の「ビッグ3」だった。公州(コンジュ)高校の朴贊浩(パク・チャンホ、テキサス・レンジャーズ)は球は速かったが、彼らより低く評価された。

「当時、個人的に最も高く評価していた投手はソンドンだったんです。まさに最高の選手でした。直球とスライダーがまるで芸術のようでした。私は野球をしながら『自分がいつも最高』という考えを持っていましたが、イム・ソンドンだけはライバルだと思っていました」。

趙成鏜は朴贊浩に対する質問に失望の表情を見せた。「高校の時は本当に親しかったんです。お互いに電話もよくして…。贊浩が漢陽(ハニャン)大学に入った後もそうした関係は続いたんですが、決定的に『裏切られた』と言う気持ちを抱くようになったのはLAドジャーズに入団したときです。LAドジャーズに入団して出国する日まで、私にドジャーズ行きのことについて一言も話さなかったんです。私は友達と思っていましたが、贊浩はそうではなかったようです」。

◆ああ!負傷、負傷、負傷…

95年、日本最高の名門球団である読売ジャイアンツに入団した趙成鏜は、98年に最初で最後の全盛期を謳歌した。出場ごとに完投完封。最高時速149kmの剛球にフォークボール、そしてシンカーが威力的だった。趙成鏜はシーズン前半で7勝(6敗)を記録し、読売ジャイアンツのエースになった。しかし7月23日、ロッテの千葉マリンスタジアムで開かれた運命のオールスター戦。 「その年5月末から腕の調子が良くなかったんです。前半で完投勝利が6回。そのうち、完封勝ちが3回でした。無理をしたわけです」。

その後遺症がすぐオールスター戦で現われた。「最後の1イニングを投げることになったんです。それでバッターを三振にとるため直球を投げたんですが、投げた直後『プツン』という感じが腕にしたんです。ところが9回の裏で我がチームが同点に追いついて、延長戦でまたマウンドに上がらなければならなくなったんです」。

趙成鏜は延長10回表、先頭バッターを三振でかたづけたが、そのとき再び腕がねじった。次のバッターはストレートの四球。オールスター戦でセントラルリーグの投手コーチをした近藤監督(当時、横浜ベースターズ)がマウンドに出てきた。

「これ以上投げられませんと言ったんです。ところが近藤監督は、私の日本語が聞き取れなかったふりをしたんです。下心は知れていました。我がチームには次の投手が佐々木(当時は横浜ベースターズ。現在はシアトルマリナーズ)しかいなかったんですが、自分のチームの投手を惜しんだんですよ」。

趙成鏜は靭帯の切れた腕で再び投げ始めた。球速が110km前後に落ちた。けがをした腕でスピードの出せるはずがない。

趙成鏜はその年2度とマウンドに上がることができなかった。代わりにうんざりするほどのリハビリが待っていた。ヒジの靭帯移植手術、突き出た骨の除去手術など二度の手術を受けなければならなかったし、リハビリと試合出場を繰り返した。

◆私の愛、私の野球

趙成鏜は昨年10月、読売を自ら辞めた。契約期間が1年残っていたが、読売のそれとなく差別するのが嫌だったし、新しい環境が必要だった。趙成鏜は「米国へ行って楽しく野球をしたい。二度と日本へは来ない。出してくれ」と読売側を説得した。

しかし、妻(崔眞實)との喧嘩など複雑な家庭内のトラブルが起きたうえ、3月に2番目の子供も生まれ、米国のスプリングキャンプに合流しようとしていた計画はお流れとなった。

国内でも野球をしたかった。4月29日プロ野球新人ドラフトに申請をしたのもそのためだ。しかし、1次指名権を持っている斗山(トゥサン)とLGがそっぽを向いた。趙成鏜は6月30日、2次ドラフトを前日に控えて自らドラフト申請を撤回した。

「最小限のプライドを守りたかったんです。2次指名を控えて現代(ヒョンデ)とLGが関心を示してきたが積極的ではなかったんです。『これもうまく行かないなあ』という気がしました。2次指名で最下位に指名されたって、何の意味がありますか」。

趙成鏜は最近、読売に意思を打診してみたと打ち明けた。しかし読売は「今すぐどの程度投げられるのかを見せてくれ」と言った。訓練もまともにしなかった状態で、今すぐボールをまともに投げる自信がなかった。それで、これもあきらめた。

「これから何をするつもりですか」という質問に対し、趙成鏜は「子供たちを教えたい」と答えた。「学校でコーチや監督になって教えるのではなく、個人的に子供たちを集めて先進野球を教えたいです。一種の野球クリニックになることもできます」。

インタビューで複雑な家庭内のことはわざと質問しなかった。趙成鏜の妻が有名芸能人だから、個人的には気になることもあった。でも野球選手だった趙成民についてだけ知りたかった。



金相洙 ssoo@donga.com