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[しどろもどろ] 隔世の感

Posted March. 05, 2001 19:04,   

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日本の歴史の教科書が「隔世の感」を語るように改訂されて十年にもならない。隔世の感は92年の初め、宮沢喜一元総理が衆議院で使った表現だ。その直前、彼は韓国の国会で演説した。「従軍慰安婦の問題に対して実に心が痛み、心から申し訳なく思う。我々の世代の過ちを繰り返さないよう、歴史を正しく後世に伝えねばならない」。日本の総理としては初めての、注目に値する発言だった。

宮沢の演説の内容は、そのままある日本の教科書(実教出版社)にも掲載された。宮沢はソウルでの演説の後、衆議院で「隣国に対する配慮から検定の基準が変わった。過ぎ去った日々を思えばまさに隔世の感がある」と語ったのだった。日本の変な歴史観、常習的な妄言、すなわち「韓国支配や中国の侵略は、自存自衛のためのものだった」、「それはアジアの解放戦争であり、そちら(被害国)にも良いことをしたではないか」という声に照らせば、確実に「隔世の感」であった。

しかし、歴史の教科書が正しく変わったわけではなかった。依然として「侵略」を「進出」に、独立万歳運動を「暴動」と表記しているものもあった。日本の知識人たちも、宮沢の「隔世の感」発言に、沸き上がる憤怒を語っていた。ジャーナリストの安江良介は、とうの昔に正していなければならない歴史認識をなおざりにしてきた「政府のサボタージュと日本の国民精神」を嘆いた。隣国が日本の反省を促し、日本国内の良心的勢力も改善を主張してきたにもかかわらず、92年まで何をしていたのか、という叱責だった。

今、10年も経たないうちに、日本の歴史の教科書は逆行しようとしている。「泥棒(列強諸国)がはびこる時代に、日本も少しだけ奪い、盗んだからといって」という良心も道徳のかけらもないサムライ史観に帰っている。文部科学省は「直すべきところは直した」と、森喜朗総理は「検定中にもかかわらず、なぜ内容が漏洩し、騒がしいのか」とだけ語っている。92年以前、日本政府のサボタージュの手法そのままだ。日本のわずかな知識人の自省の声だけが聞こえるところに、日本の「国民精神」を垣間みることができる。21世紀を背負って行く日本の後世に、歴史を正しく教えるといった総理はどこに行ったのだろうか。まさしく隔世の感である。