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ゆかしい墨の香りの中に両班の街のかいぎゃくがあった

ゆかしい墨の香りの中に両班の街のかいぎゃくがあった

Posted February. 23, 2002 10:58,   

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慶尚北道安東(キョンサンブクド・アンドン)に住む、義城(ウイソン)金氏ジチョン公派の13代目宗孫(本家の長孫)にあたる金源吉(キム・ウォンギル、61、韓国芸術文化団体総連合会安東支部会長)氏。金氏は、退溪学派(栗谷学派とともに、朝鮮時代を代表する儒学の2大学派のひとつ)の巨匠金誠一(キム・ソンイル、1588〜1593、号は鶴峰)先生伯父の曾孫であり、朝鮮時代の粛宗(スクジョン、19代)王時代に大司諫(デサガン、朝鮮時代国王に対する諫諍と論駁を担当した官庁(司諫院)の最高職)を務めた金邦杰(キム・バンゴル、1623〜1695、号は芝村)先生の宗孫。

10年ほど前、大学教授だった金氏は、イムハダムの建設によって先代からの遺産である古建築物、およそ10棟が水没の危機にさらされると、全ての建物を安東市イムドン面バコグ里の裏手にある山の麓に移した。4年余に渡る移転と建築を終えた後、大学教授を退き「知禮(チレ)芸術村」と名づけて運営している。

知禮芸術村は、1664年朝鮮粛宗在位中に建てられた宗宅、祭庁(祭祀を執り行う家)、書堂(寺子屋)など、およそ10棟125間の複合住宅で、部屋の数だけでも17室。これまで、国内の著名な詩人、小説家、演劇俳優、外国の有名人など、なんと5000人あまりが訪れたほどで、すでに地元の名所として位置づいている。

この地を訪ねた20日、金氏とともに村に向かう途中、以前紹介した霊柩車の運転手の話を聞いた。安東市内から盈徳(ヨンドク)方面に向けて、イムハ湖を見下ろしながら国道を30分ほど走った後、上り下りのオフロードをさらに40分ほど走った。なるほど、みごとに立派な瓦屋がいきなり現れた。真夜中にこのような風景を目にして、嬉しいという気持ちよりは、ひやりとした気持ちを抱いたはずの、あの運転手のことを思うと、密かに笑ってしまった。

古色蒼然とした立派な正門を通り母屋を見て回るうちに、340年余りの歳月をさかのぼり、タイムマシーンに乗って過去に行き着いた感じがした。三面が山に囲まれ、全面は開けて湖を眺める背山臨水の絶景。古城は、ヨーロッパだけにあるものではない。知禮芸術村は、韓国版古城であり、金氏はその城の主ということになる。この家で一番見晴らしが良いとされる、別廟の間に腰を下ろすと、低くめぐらされた塀が遠くに見える山や湖と、絶妙に調和を成している。風の音のほかには何も聞こえてこない。

金氏は、実に話し上手な人だ。ユーモアとウイットにあふれるというべきだろうか。低い声に独特の語調を交えながら、そっと語り掛けているはずなのに、なぜか笑いが込み上げてくる。この人があの安東のひと、それも両班(ヤンバン、朝鮮時代の貴族階級)家の宗孫ってほんとうかしら?彼には、儒教的なイメージの「陳腐」という感じが伝わってこない。内では宗家を守りながらも、外に向けてオープンされた彼の柔軟さは、その話し振りにもよく現れているのである。

金氏が書いた「安東の諧謔(かいぎゃく)」は、農耕、祭祀、接賓、風流などに関して語り継がれてきたこっけいな話を集めた、一種のユーモア集である。わが国の文学史においてユーモアは、れっきとした一つのジャンルとして位置づけられている。かいぎゃく、こっけい文学がまさにそれである。精神的な緊張と物質的な貧困の度合いが強くなるほど、人々はかいぎゃくによって困難を乗り越えてきた。エピソードごとに見られる安東人特有の、間抜けたところととんちんかんな行動の裏には、当時の新文明との衝突の過程で覚えたに違いない私たちの当惑さと、急速な時代の移り変わりに対して、私たちがどのように反応しながら生きてきたのかを読み取ることができる。冗談の社会学とでも言うべきだろうか。

金氏は「気狂いと言われながらも宗家を移して水没の危機から救い、この度はその話まで復元した。世の中がどんなに早く移り変わろうが、愚かなようでも善良で心やさしい私たちの生き方を伝えたかった」と語った。

安東の諧謔

金源吉著

玄岩社



許文明 angelhuh@donga.com