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ココ・シャネル

Posted April. 22, 2005 23:23,   

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マリリン・モンローは、ハリウッドの燦々たる太陽だった時代、「今夜は何を身に着けて寝るのか」という質問に「シャネルナンバー5」と言った。モンローを含む多くの女性たちから愛されたこの独特の香水を生み出したガブリエル・シャネル(1883〜1971)本人は、「シャネルナンバー1」を愛用した。ただ自分だけが使うために作った香水である。彼女は生涯、自分だけの個性にプライドを感じ、「私がスタイルだ」と言っていた。フランスの太陽王ルイ14世が「朕は国家なり」と言ったのを真似たのだった。シャネルは、20世紀の世界ファッション界の君主だったということだ。

しかし、その華やかな女帝の生まれは貧しかった。フランスのソミュールという村の貧しい娘と行商人の間に生まれた彼女は、学費が免除される修女院付設の学校で孤児のように育ち、服の修繕女工や夜の舞台で歌を歌うなど、転々とした。シャネルの初期の人生は、このように貧しかった。

それでも、当時カフェで歌った歌「誰がココを見たのか」の「ココ」は、デザイナーになった後も彼女の愛称になり、その略字の「COCO」のロゴは、世界で一番のファッションを保証する手形になった。パリのフリーランサー作家が書いたこの本は、飛躍的に成功したある野心満々な女性の輝く野望と華やかな社交生活、運命的な愛と胸の痛む破局について書いた評伝である。話はドラマチックであり、鮮やかなイメージの文章は、情熱的で感覚的である。

25歳のシャネルは、夜の舞台で歌を歌っていた時、フランスの富豪バルサンの愛人になり、彼の金でパリに帽子店を出した。真の意味で初の恋人だった英国の富豪カペルの助けで、服飾業界で跳躍し始めた。

シャネルは、第1次世界大戦の恐怖に震える上流層の女性たちに、自分のブティックを開かれた空間として提供した。ブティックの従業員には貴族や最上層出身の女性を採用した。シャネルは時代の精神と調和を成した個性、シンプルでありながらも実用的なファッション感覚、完璧主義を志向する仕立て、優雅でありたいとする女性たちの虚栄心を密かに刺激する鋭さを武器とした。

「『シャネルナンバー5』は、ロシア出身の化学者の息子エルネスト・ボーが作った香水だ。40歳のシャネルに彼を紹介したのは、シャネルより11歳年下の恋人だったロシア亡命貴族のドミトリー大公だった。ドミトリー大公は、ロマノフ王朝の家臣ラスプーチン暗殺に加担した人物だった。シャネルは、陰うつな彼に母性愛に近い愛情を与え、ドミトリー大公は、愛が終末に近づく頃、「プレゼントとして」香水会社のボーを紹介したのである」。

彼女は、真の芸術家を見分ける眼、芸術家のために大金を惜しみなく出す寛容さ、恐れることなく新しい愛に人生を委ねる奔放さも兼ね備えていた。

「ピカソ、ダリ、ストラビンスキー、ジャン・コクトーからガルボ、マルレネ、ディトリッヒにいたるまで、彼女の友人リストは華やかだった。シャネルは、ロールスロイスを18台も持っていた1930年代、英国一の富豪ウェストミンスター卿と長く恋愛した。第2次世界大戦中には、ドイツ人男性が恋人だったという理由で、終戦後に処罰されるところだったが、「英国人の友人ウィンスター・チャーチル」が電話をかけて、すべての問題が解決した」。

嘘をついてまで自分の過去を派手に彩る功名心や文学的話術も、シャネルの欠かすことのできない個性だった。この評伝の華やかな文体は、かなりの部分がシャネルのこのような個性から始まったように見える。彼女は独身生活を送ったパリのホテル・リッツで、息をひきとる最期の瞬間にも、下女にこのように言ったという。「私の愛しい人、もう死ぬんだね」。

原題は「Coco Chanel」(1999年)



kkt@donga.com