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[オピニオン]聞け、功臣よ

Posted December. 08, 2001 12:23,   

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王朝時代の士農工商を土台にした差別的な身分構造を見る大半の目はそう好意に満ちたものではない。ソンビ(儒者)優位の文治主義が商工業を軽蔑し、産業化を阻害し、亡国の原因となったという見方があるからだ。産業化を至上課題と考えていた近代社会の価値基準からすれば、それは正しい。

実際に、王朝が滅んだ最大の原因は産業化の遅れと、それによる国防力の劣勢だ。西洋や日本に引けを取らない軍艦と大砲を作ることができていたならば、朝鮮王朝はそのようにむなしく滅びなかっただろう。高宗(朝鮮王朝の第26代王)が年号を光武に変えて、国防と産業化に拍車をかけたが、時すでに遅しだった。

だが、文治主義が産業化を軽蔑したといって、士農工商を逆にしたものが理想的だと思っていたのならば、それもまた考え深いとは言えないだろう。

王朝時代の文治主義は、虚と実の両面を合わせ持っている。産業化の失敗がその虚だとすれば、国家の公共性を高めたのはその実に当たる。儒教政治は民の信頼を重視し、その信頼を得るために統治者の私欲を極度に押さえ、国家を徹底的に公の物にしようと努力した。だから、権力構造や人事制度、経済構造などを公共化させ、公論を受け入れて政治をしようとした。畏怖を感じるほど徹底した記録文化を発展させ、政治の公開性、透明性、実名性を高めたのも文治の功だ。

歴史上、文治の繁栄を成し遂げた朝鮮王朝の代表的な文化財が、本をはじめとする記録文化だというのは何を意味しているのか。そして、その記録を通じて、王朝の政治がテープレコーダーや映写機を回したかのように、当時の人々の息遣いまで聞こえるほど生々しく再生できるのは何を物語っているのか。まさしくビー玉のように透明な文治主義が民の信頼を得た信頼の政治が、519年も続いた朝鮮王朝の長寿の秘訣だったのだ。

文治で長寿し、文治で滅びたことが士農工商の虚と実だとすれば、その虚は捨てて、実を取るのが理にかなっている。いくら時代が農業社会から産業社会に変わったとしても、国家や企業などすべての組織が公共性を高め、ガラス張りにならなければならないという原理に変わりはない。

だとすれば、文治の長所を生かし、いくらでも産業化や技術の発展を図ることができる。

最近の世の中はガラス張りになるべき国家や公共集団の経営は深い霧に包まれ、国民はまるで遠くの山を手のひらをかざして見るかのようになり、極少数の改革勢力が演出する通りにあちこちと引き回されてばかりいる。世論も一部の人によってねつ造された意見だけが世論のように受け止められ、組織化されていない多数の国民の意見は無視されている。だから、国民は政府と指導層を信じることができず、国民と政治の距離が次第に遠のいてばかりいるのだ。

21世紀は改革が求められる時代だ、ということは分別のある識者であれば、だれもが共感している。構造調整、競争力の強化、南北和解、すべて必要だ。要は改革主体に対する信頼である。改革が公共性を高める方向に進まず、公権が私有化され、公物が私用されるようになったと感じるとすれば、だれが改革を信じて従うだろうか。いま、社会のいたるところで国家の公共性が崩れる音が聞こえている。

民主化を成し遂げれば、国の公共性が以前より高まり、国政はさらにガラス張りとなって、適材適所の人事政策が行われるだろうと期待した。だが、民主化10年の決算に失望を感じる点が多い。なぜなのか。

歴史を振り返ってみると、功臣が多い時代がもっとも乱れていた。功臣のごう慢と独り善がりが国家の公共性を損ないやすいからだ。だから、功臣をいかに押さえるのかが、功臣政権の最大の課題となる。暴君燕山君(朝鮮王朝の第10代目の王)を王位から退かせ中宗を立てた反正功臣よりも、功臣と対立して政争に敗れて死んだ趙光祖(チョ・クァンジョ)が敬われる理由もここにある。

日本植民地支配からの独立後、韓国はえてして功臣政権の連続だったと言える。建国功臣、革命功臣、そして民主化功臣が相次いで政権を握ってきた。

その功臣が自分の功はさて置いて、真の公共国家をたてようとしたならば、今日のような根深い政治不信を招くことはなかったことだろう。

韓永愚(ハン・ヨンウ)ソウル大学教授(韓国史)