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[オピニオン]三国志が人気を集める世の中

[オピニオン]三国志が人気を集める世の中

Posted December. 10, 2001 10:30,   

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「三国志」の出版市場が熱くなっているという。ある有名作家が10年前に訳した「三国志」が合計1400万部以上売超ステディー・セラーとなってからは、国内有数の小説家らが競って「三国志」の翻訳出版に飛び込んでいるという。創作活動に時間と労力を集中すべき有名小説家らが「三国志」の翻訳に乗り出したのだから、それなりの理由があるのだろう。だが、これが果たして好ましい現象なのかどうかは、ちょっと考えものである。

れる「三国志」は戦争小説であって、古典ではない。羅貫中の「三國志演義」は中国の漢末期に天下が魏、蜀、呉の三国に分裂し、覇権を争った戦国時代をあつかっている。このため、その内容はあらゆる権謀術数と中傷謀略も躊躇しない弱肉強食の描写であふれている。このような「三国志」や「孫子の兵法」などが必読書のようになっている現実は、まさに現在が闘争の時代であることを実感させる。

天下が無数の小国に分裂し、争いをしていた春秋戦国時代は、そのことばどおり天下大乱だった。合従説を説いた蘇秦や連衡策を論じた張儀などの論客は当代の主役だった。彼らのし烈な頭脳合戦と策士としての役割は、今日の米国のキッシンジャー氏よりも一枚上手のようだ。

もう一つの春秋戦国時代とも言える今の時代を生きるには、「三国志」を何度も読み返し、その異本を収集するのが趣味となり、韓国、中国、日本の三ヵ国の「三国志」を買い集めたのが地下室の書庫にいっぱいだと自慢する人もいる。「三国志」をたくさん読めば読むほど、この厳しい世の中をうまく渡り歩く方法が分かると期待しているのかも知れない。だが、それはこの世の中を真剣に誠実に生きようとする智恵とは隔たりがある。

18世紀末の正祖(朝鮮王朝の第22代王)は、「三国志」、「 水滸伝 」などの小説類を稗官小品として禁じていた。文体を堕落させるだけでなく、人心を混乱させ、社会の綱紀を乱すという理由からだった。だから正祖の文体反正(文体を純粋なものに立ち返らせる)政策の対象になった。

平和と安定を最高価値としていた朝鮮王朝の基本性格からして、三国志のような小説を好ましく思わなかったのも当然だ。

まさに正祖の先王である英祖の時代には、朝鮮社会に100年以上も平和が持続し、太平を謳歌する「昭代風謠」が出た。委巷(下町のこと)に集まって住む人々の共同詩集であるこの本は当代を昭代、すなわち太平の御代と考え、自分たちが編纂した詩集の名前に付けたのである。

現代の階級史観的な立場から見れば、身分社会で下の方の階級に属し、世の中を快く思わなかったはずの彼らが、自分が住んでいる時代を「昭代」と呼んだことは興味深い。朝鮮王朝が壬辰倭乱(文録・慶長の役)、丙子胡乱(1636年の朝鮮と清の戦争)の後に100年間続いた平和と安定が、彼らにこのような認識を植え付けるのに十分だったのだ。

だとすれば、私たちはいつになったら、太平の御代を歌う謡が下町でも聞かれる「昭代」が来るのだろうか。

19世紀以来続けられてきた帝国主義時代によって、競争と闘争のイデオロギーに汚染されて生きてきた私たちにとって「昭代」は遠い夢のようだ。

それでも、希望を抱いてみよう。米国がこれ以上袋のねずみを追い回さないで、自信と寛容を見せることを期待してみよう。過去の東西の冷戦時代にも貧しい国によく食糧を支援し、独裁国の人権問題にも解決者として乗りだし、西欧諸国のビッグ・ブラザーの役割をしっかり果たしてきた米国のことである。旧ソ連の没落以降、けん制と均衡がなくなったとすれば、一人残された米国の責任はさらに重くなるしかない。

また、私たちは一方的に米国の肩を持つことを自省しなければならない。韓国の国民は韓国戦争の際に韓国を助け援助してくれた米国に対して、感謝の気持ちを依然、心の片隅で思っている。だが、このような義理も米国が真の世界のリーダ国家としての役割を果たす時にかぎって有効だ。今後の課題は、戦争の時代を終わらせ、平和の時代を早めることにいかに貢献していくか、ということだ。やり方によっては、弱小国も世界平和に貢献する道はいくらでも開けている。

鄭玉子(チョン・オクチャ)ソウル大教授(韓国史、奎章閣館長、本紙客員論説委員)