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「戦争の侍女」に転落した科学

Posted June. 21, 2003 00:01,   

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『戦争と科学、その野合の歴史』

アーネスト・ボルクマン著、ソク・キヨン訳

510ページ、2万3000ウォン

「神様と人間の前で苛酷な罰を受けても、かまわない。見知らぬ人たちを苦しませ、人類全体に害を及ぼすような技術を希望するなんて。」

16世紀のベネチアの数学者、タルタリアは手紙にこう書いた。「罰を受けるべきこと」とは弾道学の研究だった。砲弾の落下地点を正確に算出する彼の公式は、当時、想像すらできなかった命中率を保障してくれた。

タルタリアは、諸侯や貴族からの兵器研究提案を拒み続けてきた。ところが、今度はオスマントルコがベネチアの鼻先にナイフを狙っていた。

「狼が羊の群を狙っている。」

彼は研究結果を発表し、ベネチアは救われた。

人間が武力を行使し始めてから、戦争と科学技術は引き続き親友であった。「ディペンデンス・サイエンス」などで軍事関連のジャーナリストとして活動してきた著者は、軍事関連新技術の変革と、科学技術者の協力を一目瞭然に眺めている。

1415年、フランスの精鋭軍は支離滅裂と見えた英国軍と出会った。200ヤード前で止まったフランス軍は軽蔑の意味で尻を見せた。瞬間、英国軍の陣営から数多くの矢が飛んできた。フランス軍が目にも耳にもしない新兵器の長弓だった。2時間も絶たないうちに、鎧を身につけた騎士が率いた「1000年間の軍事体系」は壊滅した。

35年後の1450年、フランス軍は英国軍の前に再び立った。フランス軍は鉄製のつぼの中に黒い粉と石を詰め込んだ。すると、耳を破るような爆音とともに、数100個の石ころが英国軍に向かって飛んできた。火薬の全盛期が幕を揚げる瞬間だった。

兵器1つの優れさにうっとりした集団は新たな変革を迎え、歴史の主人公の座を譲らなければならなかった。機関銃も戦車も戦闘機も、戦争のパラダイムを完全に変えてしまった。

ところが、毎回、驚愕はしばらくだけだった。紀元前260年、ローマは地中海を掌握していたカルタゴの戦艦1隻を捕獲、解体した。3カ月間、ローマは同じ船を220隻も複製して、ついにはカルタゴを海で掃き捨ててしまった。敵の兵器には特許権は適用されていなかった。第2次世界大戦にけじめをつけた核爆弾も同じようだった。

軍事技術と「民需」技術はいつも1つの体に2つの顔だった。丈夫な矛と鎧を、壊れない大砲を作るための努力は鉄鋼技術の進歩を呼んできた。缶詰の発明は無敵のナポレオン遠征軍を生んだ。暗号解読の必要性はコンピュータの発展を、絶たない軍事通信網を確保しようとした努力はインターネットを生んだ。戦闘機の開発競争のおかげで、私たちは速い飛行機で世界旅行を楽しんでいる。「殺戮の技術」は「豊かさの技術」に転用されてきており、その反対も同じだった。

タルタリアは祖国の差し迫った要請によって「平和主義」の良心を挫かれたが、 すべての科学者が戦争技術と関連して、内面の葛藤を経験したことではない。ガリレイは研究費が乏しくなると、望遠鏡を持って、ベネチア総督を訪ねた。「敵の艦船を早く発見できるもの」を初めて目にした総督は大変な賞金を与え、ガリレイは研究を続けることができた。

窒素肥料で世界中の畑を豊かにした「窒素固定法」の父親、ハーバーは第1次世界大戦中、ドイツ軍指令部から呼び出された。彼が作ったものは「塹壕から敵を追い出せる」塩素ガスだった。しかし、毒ガスの発明者は良心の呵責を受けなかった。「戦時に科学者の責務とは祖国に奉仕することだ」と彼は堂々と述べた。ところが、ユダヤ人のハーバーはナチス政権樹立の後、追放の悲運を受けた。

「国家と科学者の間の契約はパウスト的だ。国家に忠誠をする限り科学者は愛され、保障されることになっている。」

ハーバーはパウスト的契約まで結んでも裏切られたが、数人の科学者は契約に抵抗した。無線通信の父親、マルコニはムッソリーニの協力提案を拒んだ。ソビエトの物理学者、カピチャは核開発グループを飛び出したが粛清を避け、ノーベル物理学賞まで受賞した。しかし、パウストのように、魂を売り渡した天才が非常に多かった。日本の731部隊の責任者、石井は生き残り、日本の伝染病学の発展に寄与し、ダハウ受容所でユダヤ人を真空室に入れたストラック・ホルトは米国の保護の下で「宇宙開発の貢献者」の一人となった。

人間遺伝子の読み取りという科学史の記念碑的結実まで「バイオ殺傷機械」の足がかりと疑われている今日、「殺戮の技術」は「豊かさの技術」とどこまで同行するのだろうか。



gustav@donga.com