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日本の侵略を漫評で諷刺 故李道栄展

Posted December. 08, 2003 00:30,   

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「この山(サン)登っては復国(ポックッ)、あの山(サン)登っては復国(ポックッ)、復国、復国、復復国(ポックッ、ポックッ、ポッポックッ)」

1910年4月10日付の「大韓民報」に掲載された時事漫評「俳優唱曲図」は、民謡「セタリョン(鳥の歌)」に出てくる「ポックッ」を発音の似た「復国(国を取り戻そう)」に替え、帝国主義日本の侵略に対抗しようという熱望を込めたもの。

この漫評は、韓国初の漫画家とされる、李道栄(イ・ドヨン、号は貫斎、1884〜1933、写真)の作品。氏は、1909年「大韓民報」を通じて、国内初の近代的意味の漫評を披露、韓国における漫画の先駆者との評価を受けている。大韓民報は、大韓帝国当時発刊された民族紙のひとつ。

京畿道富川市(キョンギド・プチョンシ)の韓国漫画博物館(理事長、ソン・ワンギョン)は、今年、李道栄の没後70周忌を迎え、故人が「大韓民報」に掲載した漫画のうち90点を、17日から来年3月まで、同博物館の企画展示室で展示する。

李道栄は、日本の強制的な併合の動きに抵抗し、反日的で啓蒙的な漫画を多く描いた。氏は、李完用(イ・ワニョン、朝鮮末期の政治家)とその嫁の仲が悪く、互いに避けているという意味の言葉「子婦相避」を、きこりが自らの斧に足を突かれ、傷を負うという意味の「自斧傷皮」に変えて諷刺したり、親日派の姓を、かりうち(伝統的な遊び)の駒の名に見立てて「伊藤博文」の死を喜ぶなど、筆禍の危険を冒しての作品を多く残した。

李道栄は、18歳の時、当代の有名な韓国画家の安中植(アン・ジュンシク、朝鮮後期の画家)、趙錫晉(チョ・ソクチン、朝鮮末期の画家)の門下に入り、伝統の画法を身につけたが、当時としては珍しく遠近法に忠実な絵を描いた。1910年、漫評を辞めてからは、安中植が教授を務めた書画美術会の講習所で絵画を指導するかたわら、中国流の静物画「器皿折枝画」の韓国化に努めるなど、作品活動を続けた。

今回の展示会を企画したキューレイターの崔(チェ)ソクテ氏は「李道栄の漫評は、当時の時代像を表す絵画史料としては、ほとんど唯一のもの。李道栄は1910年、日韓併合により新聞が廃刊されるまで、総督府の弾圧にも拘わらず、親日派を実名で批判するなど、抵抗精神を表出した」と語った。

韓国漫画博物館は「李道栄漫画の木版プリント体験」などのコーナーも設けている。032—320—3745



徐廷輔 suhchoi@donga.com