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オランダ人被害者、米の「慰安婦聴聞会」で証言

オランダ人被害者、米の「慰安婦聴聞会」で証言

Posted February. 09, 2007 06:46,   

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「あのような残酷な経験をどうやって克服したかですって?私は今でもよく悪夢を見ます。克服なんて不可能です。死ぬまで苦痛を抱いて生きなければならないでしょう。私にとっては戦争はまだ終わっていません」

15日に米国議会史上初めて開かれる「日本軍慰安婦聴聞会」には、軍慰安婦被害者である韓国人被害者2人とともに青い目の白人被害者が証言する。

オランダ人でオーストラリアのギングスウッド市に住むヤン・ルーフ・オヘルネさん。今年84歳の彼女は19歳の時、日本軍に強制的に連れていかれ軍慰安婦の生活を送った。

オヘルネさんは7日、東亜(トンア)日報との電話インタビューで、約60年前に経験した残酷な経験、そしてあの時のことがその後の人生にいかなる苦痛を残したのかについて話してくれた。日本によって強制動員された軍慰安婦たちは大半が韓国などのアジア女性だと考える場合が多い。その点で、オヘルネさんの証言は少なからぬ衝撃と波紋を呼ぶものと予想される。

オヘルネさんは、オランダの植民地だったインドネシアのジャワ島に生まれた。技術者の父親は、砂糖のプランテーション農場で働いていた。温かい家庭で美しく成長したオヘルネさんは、1942年3月、ジャワ島を侵略した日本軍によって、母親とともにアムバラワ強制収用所に連行された。3年半の収容所生活の後、1944年に軍慰安婦収容所(Comfort station)に連れていかれた。

「女性にとって初めての性体験が持つ意味は大きい。その初めての経験がレイプ、それも軍慰安所での…。それが私の人生にどのような屈辱と精神的な傷を残したか、言葉で表現することはできません」

醜く見えれば男たちが望まないと考えて髪をすべて切ったが、むしろ日本軍の好奇心の対象になった。さらに日本人医師たちも性暴行の隊列に合流したという。

地獄のような軍慰安婦収容所での3ヵ月半の生活で心身ともに疲れたオヘルネさんは、再び一般収容所に移された。そこでは、同じことをさせられて体がぼろぼろになったオランダ人女性約100人が収容されていた。日本軍は、「もしこのことを外で話せば殺す」と警告した。レイプと暴行、飢えで綴られた収容所生活は、日本の敗戦によって3年半で終わった。

「軍慰安婦収容所から戻った後、母親に経験したことをありのまま話しました。抱き締めて涙を流した母は絶対誰にも言わないように言い、私もそれを約束しました」

しかし、彼女は、生涯胸にしまっていた傷を1992年に吐き出した。当時、ユーゴ内戦で女性たちが無惨にレイプされたというニュースに世界が憤り、テレビでは韓国の軍慰安婦被害者3人が公開の席上に出て、日本政府を相手に闘っているというニュースが放映された。

これまで密かに保管していた収容所での経験を記録した手記を郵便で2人の娘に送った。娘たちは手記を読んで号泣し、母を抱き締めて泣いた。

その後、オヘルネさんは世界各地で開かれる軍慰安婦関連行事に参加して日本の蛮行を暴露し、戦争でレイプ被害を受けた女性を助けることに余生を捧げてきた。日本政府が補償金的性格の「アジア女性基金」を作った時、オヘルネさんはこれをきっぱりと拒否した

「私たちが望むのは『慈善』ではなく『人間の尊厳の回復』です。2年前、日本を訪問した時、大きな衝撃を受けました。高校生たちが日本が犯したことをまったく知らないことに。日本政府が謝罪し、育つ世代に歴史の真実を教えなければなりません」

韓国を訪問したことがないという彼女は、「韓国人の友人が多い」と誇らしく言った。

「数ヵ月前にも韓国人の慰安婦被害者数人が私の家を訪れました。言葉は通じませんでしたが、すぐ打ち解けました」

米国議会から先週、聴聞会証人出席の招請を受けた。ワシントンへの旅行に夫が同行するのかと聞くと、「主人は11年前に亡くなりました」と笑った。オヘルネさんは夫ルーフさんに終戦直後、収容所で会った。ルーフさんは、日本敗戦によるテロ攻撃から収容所を守るために駐留した英国軍だった。夫婦は英国に住み、1960年にオーストラリアに移住した。彼女に聞きにくい質問をした。夫には話したのかと。

「結婚する前に言いました。夫はただ聞いていました。涙を流しながら…。その後、夫も私も一度もその話をしませんでした」



sechepa@donga.com