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[オピニオン]民衆美術

Posted September. 29, 2008 09:12,   

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1980年代、デモの現場には大型掛け絵が決まって登場した。掛け絵は強烈な色彩と現実批判的な内容を盛り込んで雰囲気を盛り上げた。いわゆる民衆美術絵家らが描いた作品だった。美術も社会変革に参加しなければならないという認識から、80年代初め始った民衆美術は美術館やギャラリーの垣根を越えて、大学社会、労働現場、政治集会へ浸透した。掛け絵のほかにも、旗の絵、壁画、版画といった多様な形式が試みられた。美術を生活に密着させるための戦略だった。しかし、そんなに多かった民衆美術家は1990年代

以後、形跡もなく消えてしまった。まるで熱帯性低気圧が一瞬にして消滅するかのように。

◆我が社会の民主化が成就し、東欧州地域の没落によって社会主義に対する幻想が破れたことを機に、民衆美術も急速に後退した。純粋な美術運動ではなく、美術を政治と変革の手段にした民主運動の限界だった。参加と意識を優先したせいで、作品の美的水準が落ち、独創性に欠けると評される。一時、文化界を風靡した芸術思潮の結末にしては、空し過ぎる。民衆美術家に理論的な枠組みを提供した人物は、現在、国立現代(ヒョンデ)美術館長に在職中の美術評論家の金潤洙(キム・ユンス)氏。

◆忘れられていた民衆美術が再び話題になった。国立現代美術館が昨年、民衆美術系列の美術品149点を集中的に購入した事実が明るみになったからだ。昨年、この美術館が購入した美術品の56.2%を占める。画家なら誰でも国立現代美術館で自分の美術品を買ってくれることを望む。「民衆美術の父」と呼ばれる金館長としては、このような偏った購買は慎むべきであった。国立現代美術館長として守るべき最小の公正性と道理とは程遠い。

◆金官長は前の政権によってコード人事で任命されて以来、連任の恩恵まで享受し、政権交替後も、頑として退陣を拒否している。民衆美術が一時の流行に止まったことをめぐって、民衆美術を主導した中心的な人物らが政府から支援金と特典をもらいながら権力化し、民衆を考える初心を失ったためだという不満が内部から漏れている。金館長はそのように権力化したケースであり、今回の議論は道徳性を前面に打ち出す彼らの裏面を浮き彫りにする。偏った購買一つだけ取っても、どうして芸術が政治化すればいけないかがよく分かる。

洪賛植(ホン・チャンシク)論説委員 chansik@donga.com