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[オピニオン]光化門

Posted July. 03, 2010 08:48,   

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1925年11月3日、東亜(トンア)日報には、「さようなら光化門(クァンファムン)」というエッセイが載せられた。筆名は「孤星(コソン)」とある。自分の位置を奪われるようになった光化門の悲哀を歌い、亡国の恨みを痛嘆する内容だ。「あなたは、当年にか傾いていく国運を挽回するため、昼夜を問わずあなたの周りを往来していた忠臣たちなり、王城を守り、血を流しながら最期を迎えた無名の兵卒たちの花開く魂なり、終局の運命を見て涙を流し、あなたと別れた志士たちなりの影を目にした違いないだろう。」

◆日本統治時代の日本は、1916年から景福宮勤政殿(キョンボククン・クンジョンジョン)前に朝鮮総督府の新庁舎を建て始めた。朝鮮王朝の心臓のような景福宮を圧倒し、支配者としての威勢を見せ付けるという思惑だった。景福宮の前角は取り壊されており、宮殿の正門である光化門もほかのところに移転するため撤去された。東亜日報の編集局長だったソル・ウィシキ氏は、1926人8月11日付けの社説「取り壊されて建て直される光化門」で、「景福宮の旧宮殿には、長い梅雨後に再び雨が降ったり止んだりする。光化門の屋根からするハンマーの音は、長安(チャンアン)を経て、北嶽(プクアク)にぶつかる。南山にもぶつかる。そして、切なく悲しむ白衣民族(韓国人)の胸にもぶつかる」と悲しんでいた。当代の名文だった。

◆日韓強制併合100年を迎える今年8月15日の光複節(独立記念日)に、原型の修復作業を行ってきた光化門が、扁額の除幕式を行い、一般に公開される予定だ。1395年建てられた光化門は、1592年文禄・慶長の役のときに、焼け落ちた後、高宗(コジョン、朝鮮第26代王=1865年)修復された。1926年総督府の庁舎を建設するため、景福宮建春門(クォンチュンムン)の北側に移転されたが、1968年元の位置に戻ったものの、正確な元の位置から10mあまり北東側に離れている上、配置の角度も3.75度ずれている。

◆文化財庁が06年から開始した光化門を元の位置に戻す修復工事の完工時期を繰り上げ、光複節に公開するため、7月末までに完了する計画だ。G20(主要20カ国)サミットに出席した世界各国の首脳らも、朝鮮王宮の威容を見ることができる。金永三(キム・ヨンサム)元大統領時代に、光複後中央庁庁舎に使われていた朝鮮総督府の建物を取り壊すときまでも論争が激しかったが、振り返ってみれば大韓民国のプライドを取り戻す上で大きく貢献したようだ。光化門が修復された付属建物を擁し、王宮前に堂々と建っている姿は、ソウルの新しい名物として位置づけられるに違いない。

朴成遠(パク・ソンウォン)論説委員 swpark@donga.com